日光市議会議員斎藤のぶおオフィシャルサイト

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プロフィール日光市議会議員斎藤 のぶお
生い立ち
昭和34年(1959年)2月12日栃木県の日光市沓掛に生まれました。
中学では鬼監督の元で野球に没頭。高校からは小さい頃から慣れ親しんだ馬を扱う馬術クラブへ所属。大学在学中にオリンピックのナショナルチームに召集。オリンピック出場は果たせなかったが、厳しい練習に耐え抜いた忍耐力が今に活きる。
父親が日光市議会議員、祖父が村会議員であったため、将来を考える年齢になったころには、自分を育ててくれた日光の為、人のために時間を使う事も良い事であると思い始め、2014年日光市議会議員に初当選。
~主な経歴~
栃木県カウンセリング協会上級者研修修了 / 社会教育指導員 / 塩野室土地改良区理事 / 
沓掛圃場整備事業換地委員長 / 小林小学校PTA会長 / 有限会社日晃バス 代表取締役
中学時代野球部の鬼顧問へ意見を言い・・・
日本の女子バレーが東洋の魔女と言われていたころ、私は中学の野球部員として、地獄の練習を耐える日々を過ごしていました。当時の野球部はびんた、ゲンコツは当たり前で、ケツバット(お尻をバットで叩かれる)等も頻繁にされる時代で、
「監督=鬼」と呼ばれる時代でした。
思った事はまず行動に移してしまう私の性格。丸刈り頭の野球少年はピッチャーをやりたいと鬼監督に懇願。結果は監督に意見を言っただけで逆鱗に触れ、中学3年間をベンチ要因として過ごす事に。ピッチャーをやりたいと言っただけです。
その頃から私の中で、意見を言うと不遇な扱いを受ける、目上の方に対して意見をしてはいけないのか?という事に強い不満を持つようになりました。なぜピッチャーをやる事ができないのか、監督と話し合いたいと、口には出しませんでしたが心に思っていました。
今となれば、その出来事があったからこそ、自分の意見を言い、相手の意見や考えを聞き、話し合うという事がとても大切な事だという事を小さいながらに身を以て体験でき、自分の芯となる部分にできたのではないかと思います。
高校、大学時代馬術に明け暮れ、気づけばオリンピックナショナルチームに・・・
  • 馬術写真

    元々、実家が農家だった事もあり、常に身近な存在で馬がおり世話をしていました。
    高校に進んだ私は、親しくさせていただいていた学校の先輩から馬術部に誘われ入部する事に。馬の取り扱いに慣れていた事もあり、あれよあれよと1年からレギュラーになり、2年生3年生の時には国体にも出場。
    中央大学時代には馬術でオリンピックナショナルチームに召集され、世界レベルに通用するほどに成長していました。
    当時のオリンピック出場資格は、海外での馬術大会で実績を残さなければいけませんでした。多大な海外遠征費で親へ負担もかけたくありませんでしたし、スポンサーはついていましたが、不足分を自分で調達する事もできなかったので出場する事はできませんでした。
    オリンピック出場はできませんでしたが、当時の厳しい練習を共に耐え抜いてきた先輩や後輩、厳しい中にも愛のある指導をしていただいた顧問の先生とは今でも付き合いが続いています。  学業につきましては、心理学を専攻この事に関しましては、言葉にはだせない馬を扱う事と共通点を感じとても興味を持ち、楽しく勉強させて頂きました。(その他いろいろな研修会や、・・・・・・・塾)と出席できた事、親友、人との出会い、有意義学生生活、東京へ行かせてくれた両親に感謝です。

社会を学んだサラリーマン~農家生活、そして現在へ
スペースシャトル「コロンビア」が初飛行を迎えた昭和56年(1981年)、私は東京に本社を置く国新産業へ就職しました。
栃木への工場建設に尽力し、本社開発部と栃木工場の副工場長として東京と栃木を飛び回りました。
当時は日光の発展を考えたりする事等はありませんでしたが、昭和61年(1986年)に市政に尽力していた父親をサポートする為実家に戻る事を決意。サポートだけではなく、家業であった農業を行いました。そして、農業のオフシーズンを他にうまく活用できないかと考え、バス事業を開始。それが日晃バスの始まりです。

バスの運転と農作業、社会の大変さ、農業の大変さ、街をよくする事の大変さを身を以て経験いたしました。その後、市議会議員であった父親と様々な話をしをするうちに、自分も日光をより良くしたいとの想いが芽生えてきました。
自分の事だけで一生終わるのではなく、育てていただいた地域に恩返しをしたい、また、その様な姿を自分の子供たちに見せたいと思うようになりました。

そして平成22年(2010年)、ある方に声をかけられ、急きょ日光市議会議員選挙に立候補する事に。選挙運動を満足にできる準備もなく、あえなく落選。自分のあまさが原因でした。皆様の熱い気持ちを無駄にしてしまいました。
それから4年。平成26年(2014年)初当選。
あの日見た市議会議員であった父親の背中の様に、そして村会議員であった祖父の様に、私は日光市に育てられた一人の男として、3人の子をもつ父親として、日光のためにこれからの時間を費やしていきたいと思います。